第172回 名古屋にも古い町並み 1
名古屋にも古い町並みが残っています。1軒でも古い建物があると時間を忘れる私にとっては・・・・

名古屋に残る古い町並みを求めて新幹線を降りて場所を婦警さんに聞きました。
その名は四間道と言う名で、「この道をまっすぐですよ、でも、歩くと15分ぐらいかかりますよ。」「いやいや、横浜からきたメタボですから歩かないとね・・・・」「・・・・笑い」てな会話で駅を出発・・・・
目印がこの川、でもよく見るとこの川の両岸、コンクリートの冷たい壁ではないのです。しかも、若干も緑の斜面と低い石の擁壁ビルはあるものの水面とその両側の一部はこれでも情緒が・・・・
その名は四間道と言う名で、「この道をまっすぐですよ、でも、歩くと15分ぐらいかかりますよ。」「いやいや、横浜からきたメタボですから歩かないとね・・・・」「・・・・笑い」てな会話で駅を出発・・・・
目印がこの川、でもよく見るとこの川の両岸、コンクリートの冷たい壁ではないのです。しかも、若干も緑の斜面と低い石の擁壁ビルはあるものの水面とその両側の一部はこれでも情緒が・・・・

ふと気付くと道路の縁はコンクリートのL字溝ではありません。石が使われている。こんな小さな事でも感心してしまう私はいったい・・・・・
それから、置いてある石の縞模様は、大阪なら阪神タイガーズ?、意味が今ひとつ分かりませんが・・・・
それから、置いてある石の縞模様は、大阪なら阪神タイガーズ?、意味が今ひとつ分かりませんが・・・・

ここは「四間道」、読みは「しかんどう」?「しけんどう」「よんけんどう」・・・・いやいや「しけみち」と呼ぶのが正式のようです。
なぜ四間かというと一間=1.82mで×4=7.28mということらしい。
火事と喧嘩は江戸の華とも言いますが、名古屋もご多分に漏れず1700年(元禄13)に元禄の大火といわれる火事により,1649軒の町屋と15の寺社が焼失した歴史があるのです。その教訓として尾張藩4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)は町の防火方法を研究させ,堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張して商家の焼失を避けたと言うのです。
なぜ四間かというと一間=1.82mで×4=7.28mということらしい。
火事と喧嘩は江戸の華とも言いますが、名古屋もご多分に漏れず1700年(元禄13)に元禄の大火といわれる火事により,1649軒の町屋と15の寺社が焼失した歴史があるのです。その教訓として尾張藩4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)は町の防火方法を研究させ,堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張して商家の焼失を避けたと言うのです。

その幅の道は今は石畳、縁も普通の道路とは違う縁石、フランスとかイタリア、スイスなど行った時、石畳が意外ときついと1日中観光して後でホテルでつぶやいていましたが、この石畳は凸凹ではなく歩いても楽々

角にあった蔵は今は「Dining Bar Cafe」って目板になぜかローマ字、でもそれもおしゃれな感じ
蔵の白い壁と瓦、各扉どれもいつ見ても飽きないのです。それも、実は喜多方など東北の寒くいところと高知、宮崎のように温暖で台風の風を意識したところなど地域それぞれでいろいろ、その違いなど判ってうむうむと頷いている変なおじさんがこの位置からずっと建物を眺めていました。
蔵の白い壁と瓦、各扉どれもいつ見ても飽きないのです。それも、実は喜多方など東北の寒くいところと高知、宮崎のように温暖で台風の風を意識したところなど地域それぞれでいろいろ、その違いなど判ってうむうむと頷いている変なおじさんがこの位置からずっと建物を眺めていました。

ここも今は食事処、当時の面影を残しつつ、隣家が無くなって板を張って同じように濃い色を塗ったり、元々あった縦格子と同じようにエアコンの室外機を隠してなんとか昔の風情を保とうとしていることにも感心感心

その道の奧に小さな祠、これって子守地蔵尊その解説には「宝永七年(1710)の作(芥子川律治氏調査)で、その後事故で地中に埋もれ、146年前頃(1858?)、閑所の奥の現在のお堂の20m南で、井戸を掘る際に発見し、御仏の御名である円城童子にあやかり、子守地蔵尊と呼ばれました。明治28年(1896)に再建、毎年8月23日、24日が大祭で、地蔵盆が盛大に行われます。」
と書かれています。どんな事故かは判りませんが、150年間も地中に埋もれていたと言うあたり歴史の不思議さを感じます。
と書かれています。どんな事故かは判りませんが、150年間も地中に埋もれていたと言うあたり歴史の不思議さを感じます。
