第1回:私の住まい遍歴(その1) 宇高連絡船

H17.3.29.

住宅レポートの始まりは、
「まず隗より始めよ」ということで
自己紹介を兼ね、
私の住まい遍歴を、恥ずかしながら、お話いたします。

1950年に徳島市で生まれました。
生まれた町は、市内としては最も南東に位置し、
南北に中級の河川、西が山、東が海の町で、
市内ではあるけれど別の町、という印象でした。
東の海は砂浜で、当時は海水浴ができました。
(現在は砂浜をつぶし、港としてフェリー乗り場になっているそうです)
南北の川には、海に近い位置に、それぞれ漁港がありました。
ちなみに、
父は公務員でしたが、2代前までは代々網元だったそうです。
網元といっても小規模なもので、半農半漁だったようですから
採取生活と農耕生活、つまり、縄文時代と弥生時代が
混ざり合った生活を代々していたのでしょう。

西の山の麓に、私が通っていた小学校がありました。
おそらく、今見ると、丘という程度の山かもしれません。
スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」という映画がありましたが
四国から、狸の応援部隊が駆けつける場面があります。
四国は、実は、かつて、狸が支配していた国で、
四国・徳島には有名な狸合戦がありました。
天保7年の決戦で勝利を収めた「金長」という名前の狸は
その仁義と栄誉をたたえ、
徳島名物、「金長まんじゅう」として、全国に知れ渡っています。
その金長との最後の決戦で敗れた狸(六右衛門)が住んでいた洞穴が
山の麓のお寺にあり
そのお寺に、我が家のお墓があります。
したがって、我が家では、「金長まんじゅう」は食さないことになっています。


10歳(小学校4年生)のときに、
父の転職により、千葉県船橋市に引っ越しました。
国鉄(JR)で高松まで行き、宇高連絡船(フェリー)に乗り、
宇野から岡山、岡山から寝台列車(ブルートレイン)で東京まで来ます。
宇野から岡山までの途中にある、児島湾の干拓で作った田んぼが大平原に見え、
さすがに本州は広い、という感動がありました。
それまで列車に乗ったことはほとんどなく、
とにかく、浮き浮きしていたことを覚えています。

この時が、初めての引越しで、
今まで15回も引越しをしてしまいました。
(つづく)