第2回:私の住まい遍歴(その2) 君去らず
H17.4.1.
10歳の時に、徳島県から千葉県に移住しました。
徳島から千葉へ
大変珍しいことと思われるでしょうが、
古代では、決して珍しくありません。
徳島から千葉へ
大変珍しいことと思われるでしょうが、
古代では、決して珍しくありません。
徳島県は阿波(あわ)の国です。
千葉県は、房総半島の南から、安房(あわ)の国、上総(かずさ)の国、下総(しもうさ)の国の3つの国から成り立っています。
日本書紀に拠れば
阿波の人が、黒潮にのって移住した地を、安房と名づけたそうです。
ちなみに、徳島、和歌山、千葉(安房の地域)には、同一の地名が多数存在します。
なお、房総半島は南から開発(今日とはまったく逆)されましたから
安房の次に開発された、南部の地域を上総、
次に開発された北部の地域を下総と名づけました。
なお、上総・下総の総とは、この地域の当時の大切な産物である麻のことを意味します。
千葉県は、房総半島の南から、安房(あわ)の国、上総(かずさ)の国、下総(しもうさ)の国の3つの国から成り立っています。
日本書紀に拠れば
阿波の人が、黒潮にのって移住した地を、安房と名づけたそうです。
ちなみに、徳島、和歌山、千葉(安房の地域)には、同一の地名が多数存在します。
なお、房総半島は南から開発(今日とはまったく逆)されましたから
安房の次に開発された、南部の地域を上総、
次に開発された北部の地域を下総と名づけました。
なお、上総・下総の総とは、この地域の当時の大切な産物である麻のことを意味します。
古代人は、黒潮に乗って、南から移住しましたが、
私は、ブルートレインに乗って、北から移住しました。
私は、ブルートレインに乗って、北から移住しました。
房総半島に海から渡るには、三浦半島から渡る方法もあります。
今でも、久里浜(三浦半島)と金谷(房総半島)の間に、フェリーが就航しており
対岸が指呼の間(しこのかん)に見えます。
今でも、久里浜(三浦半島)と金谷(房総半島)の間に、フェリーが就航しており
対岸が指呼の間(しこのかん)に見えます。
「これはちっちゃな海だな、立ち走ってもわたることができよう」
と、言ってしまった古代人が、
日本武尊(やまとたけるのみこと、倭建命)であり、
この、海を侮り、油断したことが、海の神の怒りに触れ、
突如、暴風雨が起こりました。
この海神の怒りを鎮めるため、
后である弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)が、入水しました。
と、言ってしまった古代人が、
日本武尊(やまとたけるのみこと、倭建命)であり、
この、海を侮り、油断したことが、海の神の怒りに触れ、
突如、暴風雨が起こりました。
この海神の怒りを鎮めるため、
后である弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)が、入水しました。
その時の歌が
さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも
この歌が、日本人の辞世のはじめとされています。
さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも
この歌が、日本人の辞世のはじめとされています。
木更津(きさらづ)という地名は、君(きみ:弟橘比賣命のこと)さらず、から由来し
弟橘比賣命の袖が流れついた浦(海岸)を袖ヶ浦(そでがうら)と呼んでいます。
(つづく)
弟橘比賣命の袖が流れついた浦(海岸)を袖ヶ浦(そでがうら)と呼んでいます。
(つづく)
参考文献:「古事記と日本人」 渡部昇一 祥伝社
