第9回:土地は誰のものか(その1)
土地は誰のものか
日本人の土地所有意識の歴史的変遷についてお話しすると同時に、土地相続意識の変遷についてもお話します。
日本人の土地所有意識の歴史的変遷についてお話しすると同時に、土地相続意識の変遷についてもお話します。
土地を相続するということはどういうことでしょうか。
土地を相続するということは、
その土地が個人(被相続人)の所有物であることが大前提となります。
この所有という概念は、一時的な所有ではなく、排他的・絶対的な権利であることが大前提です。
ではいつから、日本では排他的・絶対的な土地所有が始まったのでしょうか。
土地を相続するということは、
その土地が個人(被相続人)の所有物であることが大前提となります。
この所有という概念は、一時的な所有ではなく、排他的・絶対的な権利であることが大前提です。
ではいつから、日本では排他的・絶対的な土地所有が始まったのでしょうか。
中学校の日本史で勉強した大化の改新(645年)を思い出してください。
大化の改新の施策として、
公地公民という言葉が浮かぶでしょう。
古代から中世にかけて、
日本、中国、朝鮮では、古典儒教に基づく律令制度によって、
土地は天皇、皇帝、国王のものとする王土思想が行き渡っておりました。
もちろん、現実的には、
いずれの国においても事実上の私有化はありましたが、
それは法制上安定したものではなく、一種の政治的な利権であり、
権力者が変われば土地の私有権も喪失するものでした。
大化の改新の施策として、
公地公民という言葉が浮かぶでしょう。
古代から中世にかけて、
日本、中国、朝鮮では、古典儒教に基づく律令制度によって、
土地は天皇、皇帝、国王のものとする王土思想が行き渡っておりました。
もちろん、現実的には、
いずれの国においても事実上の私有化はありましたが、
それは法制上安定したものではなく、一種の政治的な利権であり、
権力者が変われば土地の私有権も喪失するものでした。
たとえば、朝鮮では、
高麗の末期には、政治が乱れて相当分権化の傾向が強められましたが、
李朝の創建(1329年)によって、中央集権体制が作られ
王土思想の強化によって、土地所有の分権化と私有化が阻まれました。
「李朝の政争」は、余りにも有名ですが、
その背景には土地問題があります。
土地の実質的私有は、一種の政治的利権であって
利権を伴わない純然たる土地私有はありえません。
高麗の末期には、政治が乱れて相当分権化の傾向が強められましたが、
李朝の創建(1329年)によって、中央集権体制が作られ
王土思想の強化によって、土地所有の分権化と私有化が阻まれました。
「李朝の政争」は、余りにも有名ですが、
その背景には土地問題があります。
土地の実質的私有は、一種の政治的利権であって
利権を伴わない純然たる土地私有はありえません。
金日抻著「儒教文化圏の秩序と経済」より
「…『たてまえ』としての土地所有制は生きていながらも、王族、国家機関の長、権門勢族などが、その勢力によって、私田を実質的に拡大した事実である。
というのは、事実上、土地の私有化があっても、法制上、それは安定したものではなかったから、権勢がなければ長続きしないということである。
だから、この矛盾のために、李朝時代の異様にまで見られる、官職の奪い合いのための党派争いが、激しく展開されたと考えることができる。」
律令末期の日本もこれと似た状態で、
王土制の下でなんらかの形で土地を私有することは、
常に政治的利権でした。
「…『たてまえ』としての土地所有制は生きていながらも、王族、国家機関の長、権門勢族などが、その勢力によって、私田を実質的に拡大した事実である。
というのは、事実上、土地の私有化があっても、法制上、それは安定したものではなかったから、権勢がなければ長続きしないということである。
だから、この矛盾のために、李朝時代の異様にまで見られる、官職の奪い合いのための党派争いが、激しく展開されたと考えることができる。」
律令末期の日本もこれと似た状態で、
王土制の下でなんらかの形で土地を私有することは、
常に政治的利権でした。
日本において、この王土思想を棚上げし、解放したのが源頼朝です。
源頼朝の所領安堵こそが、その第一歩です。
頼朝は、関東武士団の潜在的欲求である
所領の所有権を、
所領安堵という方法で保証しました。
『吾妻鏡』の富士川の戦いのあとの記述では
「…始めて勲功の賞を行はる。北条殿…以下、あるいは本領を安堵し、あるいは新恩に浴せしむ…」
頼朝は、
武士の一所懸命の情熱・執念に後押しされ、
この所領安堵、そしてさらには、
新恩(敵から奪った所領の給付)によって
日本全国の支配権を手に入れることができたわけです。
源頼朝の所領安堵こそが、その第一歩です。
頼朝は、関東武士団の潜在的欲求である
所領の所有権を、
所領安堵という方法で保証しました。
『吾妻鏡』の富士川の戦いのあとの記述では
「…始めて勲功の賞を行はる。北条殿…以下、あるいは本領を安堵し、あるいは新恩に浴せしむ…」
頼朝は、
武士の一所懸命の情熱・執念に後押しされ、
この所領安堵、そしてさらには、
新恩(敵から奪った所領の給付)によって
日本全国の支配権を手に入れることができたわけです。
安堵された所領は、
将軍でも勝手に没収することはできません。
1200年12月の記述に
「28日、金吾(2代将軍:源頼家のこと)政所に仰せて、諸国の田文を召し出され、…すでに珍事なり。」
将軍といえども、所領を没収することは「珍事」なのです。
理由なき土地の没収は、将軍といえども身の破滅に過ぎず、
結局、頼家は失脚して、修善寺で殺されます。
将軍でも勝手に没収することはできません。
1200年12月の記述に
「28日、金吾(2代将軍:源頼家のこと)政所に仰せて、諸国の田文を召し出され、…すでに珍事なり。」
将軍といえども、所領を没収することは「珍事」なのです。
理由なき土地の没収は、将軍といえども身の破滅に過ぎず、
結局、頼家は失脚して、修善寺で殺されます。
頼朝の没後に制定された、わが国初の民法典とも言うべき貞永式目(関東御成敗式目1232年)48条では
「売買所領の事/右、相伝の私領をもって、要用の時涸却(こきゃく)せしむるは定法なり」
涸却とは売却のことを意味しますが、
自由に売却できるということは、排他的・絶対的な所有権が確立していた事が分かります。
「売買所領の事/右、相伝の私領をもって、要用の時涸却(こきゃく)せしむるは定法なり」
涸却とは売却のことを意味しますが、
自由に売却できるということは、排他的・絶対的な所有権が確立していた事が分かります。
このように、土地の所有権は、
まず武家によって主張され、
その下の土豪により、
さらに指導的農民により主張され、
下克上のエネルギーの重要な要素となっておりました。
時代は飛びますが、太閤検地とは、下克上の集大成として、武士や土豪ではなく、農民に土地の所有権を確定させた意義があります。
まず武家によって主張され、
その下の土豪により、
さらに指導的農民により主張され、
下克上のエネルギーの重要な要素となっておりました。
時代は飛びますが、太閤検地とは、下克上の集大成として、武士や土豪ではなく、農民に土地の所有権を確定させた意義があります。
続く
参考文献:山本七平著『日本人の土地神話』日本経済新聞社
参考文献:山本七平著『日本人の土地神話』日本経済新聞社
