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コミュニティーの復活は可能か

住宅ねっと相談室カウンセラー
住宅生産振興財団 専務理事
大川 陸


 郊外の大規模ニュータウンに住んでいる友人の話によると、そこでは最近「オヤジガリ」が時々発生していて奥さんや娘さんともども不気味な思いをしているという。神戸の少年以来「郊外」の問題を指摘する識者は多い。いわく歴史性や共同性の欠如、いわく均質性、これらのもたらす自己喪失感、現象としての家庭内暴力、校内暴力、登枚拒否、いじめ。これらはすぐれて「郊外」の問題であるというのだ。
「家族と郊外の社会学」(PHP)を著した三浦展氏(三菱総研)によると、「都市計画家よ、もっと社会怯を論じよう」ということになるが、筆者も同感である。
 ではどのように「社会性」を論ずることが出来るのか。ここで読者と少々頭の体操をしてみようと思う。
 まず人間の「均質」ということを考えてみよう。人間はそれぞれ個性を持ち均質であるはずはないが、少なくとも職業、年齢、収入などの属性で言えば均質ということはある。世の中すべてサラリーマンという世の中で、ごく少数の非ネクタイ族がいるに過ぎない。しかも所得もサラリーマン社長から新卒まで大部分は20倍というより10倍ぐらいのうちに収まってしまうだろう。
 何しろ産業の合理化、近代化を図りながら所得格差の是正に努めようというのが国策であったのだ。見事なまでの均質化は国家目標の素晴らしい成果といえよう。そしてこのことを積極的に変えようという世論は今のところない。
 同じような人間や家族が住み、同じような時間に通勤し、子供や母親たちの生活も似かよっているからといって、一人ひとりが個性を発揮できる状況さえできれば(これが問題ではある)、そのこと自体が大きな問題というわけではない。勿論出来るだけ多様な人々が混住するほうが地域としての可能性は高いとは言えよう。望ましい混住とは何か、その実現手法如何ということはひとつのテーマたり得る。
 均質というのは住まい手ばかりの話ではない。むしろ画一的な宅地が整然と並んでいるという空間の質も問題とされよう。「同一」であることが「公平」であるといわんばかりの区画整理地をよく見かける。幹線、準幹線道路があって、6メートルの区画道路がある。地区公園から児童公園まで、すべてがヒエラルキーにしたがって「公平、平等」に作られている。シビルミニマム、ナショナルミニマムの実現ということはあらゆる地域を均質化することではないだろうが、整備水準に限らず「基準・水準」には画一化を誘導しかねない危険な側面があるということだろう。
 空間の均質がもたらす害を実証することはなかなか難しいが、少なくとも変化に乏しい退屈な空間は人間の五感を生き生きとはたらかすことはないだろう。
 年寄りのいない核家族、テレビ、パソコンの普及による団欒の喪失、受験競争と塾通い等、郊外における人や空間の「均質」以外の世の中全体の変化も見逃せないが、都市計画、住宅計画に問題を引き戻してみよう。
 私の考えでは、それは「まち」の機能を考えるということから始まるのではないかと思っている。安心、安全、便利といった機能的要素、環境的要素をひとつずつ解決していって最後に残るものは何か。人間にとって「生きがい」とか「よろこび」の根源は何か。それは決して「金銭」でもなければ金銭によって得られる「モノ」でも「サービス」でもないだろう。人と人との会話や交流を通じてしか得られない何か、例えば「他人に尊敬されたり、喜びを与えたりすることができること」ではないだろうか。
 そもそも「まち」とはそのようなもの、つまり交流機能を通じてしつけや教育、癒しや医療相談など、人間の成長や生活を支える機能をおのずからもっていたのではなかったか。
 しかし現在こういった問題意識が都市・住宅計画には失われてしまったように思う。
 ある地域の開発計画では戸建ての住宅地に計画的にお店を入れていくことが検討されている。その方が交流も生まれるし夜間などの安全も保たれるのではないかというのである。わたしも大賛成である。騒音や臭気などに気をつければ少々のトラブルはむしろあったほうが地域は健全なのである。
 近代都市計画の用途純化主義は見かけ上清潔で退屈な「まち」を作ってきたのではないか。
 私自身も老後は自宅を、駄菓子屋、ミニ児童図書館、宅老所、花屋、お茶のみ場などの複合的な機能を持ち、老若男女の集まる「地域の家」「みんなの家」にしてしまいたいと思っている。このようなことが住宅計画や都市計画の主要課題になったのではないだろうか。
 一言もしゃべらずにバーコードで買い物ができるコンビニ、スーパーや自販機、喫茶店に行くとそれぞれが漫画本を読み一言もしゃべらない若者、飲みに行ってもてんでにカラオケの選曲をして会話を交わさぬ人達。一人ひとりがテレビも電話も持ち、パソコンでいきなり世界とつながっているかのようで実は大変孤独な状況がある。
 パーソナルなアイデンティティーを持つことも重要だが、家族や地域という集団的なアイデンティティーも重要だ。生身の人間との「会話力」を養うことのできる地域社会をつくるためにはたくさんの困難があるだろうが、住宅に関わる者の大きな課題であると考えたい。実は「郊外」も「中心市街地」も「まち」として同じテーマをかかえているということだろう。

「住宅」(社)日本住宅協会発行より




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